離欲

ヨーガの勉強会、来月の卒業試験を残し、全て終了しました。1ヶ月に1回、これを支えに生活してきたような感もあります。先生の話は、いつも心にしみまして、それに関する宿題がでるので、否応なしに深く考え、今の自分なりの答えをみつける練習にもなっていました。ほとんどは、わかっていても撃沈なことばかしだったのですが、それでも次回先生に会える日を思うと、元気がでたものでした。後期のコースも受けようかな・・・自信もないけど、ここでやめたら前の自分に戻ってしまいそうだから。

講義のあとに自主参加の勉強があってまして、私は用事がない限りは貴重な機会なので受講しています。「ヨーガ・スートラ」、ヨーガをしている人には根本経典ともなる格言集の解釈を勉強する時間もあるのですが、今回は「離欲(ヴィヤラーギヤ)」に関してでした。

「離欲とは、視認し、又は、視認しない、いずれの対象物をも欲することを止めた人物のいだく、欲望を完全に克服した意識のことである。」
ヨーガ・スートラ Ⅰー15

この解釈として、先生が話されたことで、今、私の心で私なりに理解したことを書き留めておきたいと思います。あくまでも個人の覚書です。

「離欲」なんて人間に生まれた以上常人にはできっこないと思っていますし、自分にできるとも思っていません。と、いう前提のもとで話を聞きはじめました。

ところが、まず話されたのは無欲になることではなく、自分以外の人にたいして「お世話」=「セーヴァ」をすることでした。(日本語になってるんですね)①親に対しての世話、②一族郎党への世話、③社会への貢献、④師匠への世話、⑤貧しいものとして現れた神への世話、が揚げられ、具体的に説明していただき、その後、自分はどうなのか、これからどうするのかという瞑想でした。

もちろん、私は全くといっていいほど、できていませんでした。でも、ひとつずつ考えてみたら、少しでもできることばかり。さっそく今日は、その気持ちで職場に行ったら(②社会への貢献、ですね。笑)、何事も苦になりませんね。不思議なものです。まあ、ヘンな話、なんで私がしなきゃならないの?と、思う仕事も貢献=世話と思えば平気ですし、ストレスの元も、私が必要なら聞きましょうという態度で受け入れる・・・。色々なとこから持ち込まれるネガテイブな情報や意見も、なんで私に言ってくるの?と、思うわずにいられました。しかも、これによって偉くなろうという動機ではないので、無理しなくてもいいし、結果もないわけです。ただ、やってみただけですから。ただ、行為そのものが、新鮮に感じられる、何より、ストレスがない・・・
まだ1日目ですので、なんともいえませんが、この気持ちを忘れないないためにも、書いておこうと思いました。

あとは、無言の行の話。今でもインドでは普通に行われているそうです。これには、ゼスチャーで人とコミュニケーションをとっていいものと、一切人と関わりをもたないものがあるそうです、アイコンタクトもダメ。あるヨーガを修行する人は、いつも不平不満を言って、他人の悪口を言っていたので、彼の師匠がそのことを話すと、彼自身わかっているのに、やめることはできないのだそうです。それで無言の行をすすめ、3年後、彼はすっかり変わっていたそう・・・。私達、普通に暮らしている人には無言の行は無理なので、否定的なことを人に語らず、良いことを語るという方法を話されていました。そうですね、それならできないこともない。(無言の行よりは)

先生が例えられた宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・・」の「自分のことは計算にいれず」な生き方、それがこの「離欲」なのだと思います。私はいつもこのフレーズは頭にあったので(自分にはできないこととして)、心にぐっときました。

ヨーガの教えの中でも、私には難しいなあと思う部分。それでも、少しずつでも努力したいと思ったはじめての瞬間だったような気がします。
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by looktothisday | 2008-02-22 20:41 | Yoga